はじめに

 大阪と言えば、「天下の台所」「産物回し」とか、「繊維の街」「東洋のマンチェスター」など、商工業の活動の中心であることを示す名称には事欠かない。豊臣秀吉によって商都の経済的基盤を作られた大坂(当時の表現)は、江戸時代になると藩の蔵屋敷が置かれ、各藩の領内の貢納物とくに年貢米をはじめ蝋、紙などが持ち込まれ売り捌かれた。米の場合には、堂島の相場が日本国中の標準相場となり、大坂が「諸色値段相場の元方」と言われるようになった。大坂には、蔵物だけでなく、近畿を中心とした農民などが生産した菜種、綿と言った納屋物も集まり、菱垣船・樽廻船などを通じて最大の消費地である江戸へ向けて運ばれていった。つまり、大坂は蔵物であれ、納屋物であれ、全国の物資がいったん集められ、そこからまた全国へ分散されていく、流通の要の位置にあったのである。このことは、明治以降、工業が発展し大阪が商都から工都へ変貌していくなかでも、依然として商品の集散地として発展する歴史的基盤となった。
立売堀(いたちぼり)・新町といえば、繊維の船場と並んで、大阪を代表する金属・機械工具の街として全国に名を知られる。明治、大正、昭和と三代にわたる先人達の努力によって日本一の問屋街として、鉄鋼、機械工具、その他の機械を国内はもとより、遠く海外にまで供給してきた。しかし、太平洋戦争においては度重なる空襲により、立売堀・新町一帯は、以前の面影を残すことなく全くの焼け野原と化した。それでも人々は戦後の激しいインフレと物資不足の中で、筆舌に尽くし難い困難を重ねながらも復興への道を歩き出した。そして遂に立売堀、新町一帯はそれまで以上の繁栄を取り戻すことになった。
第二次世界大戦後、日本は未曾有の高度経済成長を達成し、国民は豊かさを実感するとともに、機械金属工業も繁栄を謳歌した。国際競争力を高めた日本の産業は、輸出を伸ばし、昭和43年には西独を抜いて資本主義国第二位の経済力を持つ国となる。機械工具業界も、国内だけでなく、輸出において繁栄を謳歌した時代であった。しかし、他方でこのことは貿易不均衡をもたらし、従来の自由貿易体制の枠組みの修正を引きおこす一因となる。資本主義陣営の基軸通貨であったドルは、ベトナム戦争によるドルの散布、貿易赤字の拡大によって、米国大統領ニクソンはドル防衛のために金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金を発表せざるを得ない状況に追い込まれる。昭和46年の、このいわゆるニクソン・ショックによって、固定相場制から変動相場制へ移行するとともに、その後に引き続く石油ショック、そして昭和60年の「プラザ合意」による円高など、日本の産業は様々な社会経済的情勢の変化や国際競争の荒波に巻き込まれていく。日本経済の発展に伴って、大阪の機械工具商の業界がどのように発展したのか、組合活動を中心としてその歴史的発展の足跡をたどっていくことにしたい。
COLUMN その1 立売堀(いたちぼり)の由来

 立売堀の名称の由来については、元和年間に、土佐藩が幕府の許可を得て、常設の材木市場を開き、材木の立ち売りを行ったのが、起こりという説がある。またこれを立売堀というのは、大坂の役に伊達藩が陣をおいた要害の堀切り跡を掘り足して川が開かれ、初めは伊達堀と呼ばれたためであろうという説がある。新町一帯ももともとは葦などの生えた淀川三角州の寂しい原野だったが、元和の初め頃に官許を得た伏見町の浪人、木村又二郎が市中に散在する遊所を集めて、新たに遊女町を開発し、新町と呼ばれたのが起こりと言われている。
 明治40年8月には大阪市電第二期工事が進んで、長堀北側一帯が使えなくなったため、由緒ある立売堀材木市場も廃止され、境川へ移転した。明治41年11月より、市電東西線の九条二番道路末吉橋西詰間、南北線の梅田駅恵美須1丁目間がともに開通し、新町や立売堀方面の交通は極めて便利になった。材木市場の移転と市電開通により、この方面への機械金属業者の進出は、急速に増えることになった。そして明治末期には、すでに立売堀北通は鉄材、機械工具、金物、船具などの店が大半を占めるようになっていた。
 昭和6年満州事変が起こってから、日華事変、第二次世界大戦と続いて全世界が戦争の渦中に巻き込まれていく中で、わが国の鉄鋼、造船、機械、化学工業など、軍需産業は目覚ましい発展を遂げ、立売堀・新町を中心とした機械金属問屋街も南は堀江、北は靭、東は西横堀川(阪神高速道路建設のため、埋め立てられた)、西は本田あたりまで広がり、ひたすら繁栄の道を歩むことになった。当時は、大阪近郊や地方の鉄工所主らが工場用品なら何でも揃うと、立売堀北通4丁目で電車を降りていた。
 機械工具商の夜明け

明治27年8月に日本が清国に宣戦布告して日清戦争が勃発した。これによって船用品や鉄鋼製品の需要は急増することになった。明治28年(1895年)4月、下関条約でこの戦争に勝利を得て以降、日本の朝鮮、清国への輸出貿易が盛んとなり、軍需産業はその重要性を増していった。このような時期に芽生えたのが機械工具業であったが、明治30年前後の立売堀・新町は、鉄や機械工具を売る店が船具屋と共に点々と営業していた程度で、鉄鋼、バルブ・コック、継手、ポンプ、工具などが主な取扱い品であった。
 明治36年、経済発展の途上にあって華々しく開かれたのが、第5回内国勧業博覧会であった。会場となった大阪天王寺公園一帯には、工業館、農業館、水産館、機械館、通運館などが設けられ、多種にわたる国産品が出品され、人気を集めた。

工具の輸入は、旧来の金物商が金属などの材料や農具、工匠具、その他の刃物、金物類の取扱いから機械工業の発展とともに工具輸入に手を広げていったのが始まりであった。当時の金物商は、五金商と呼ばれ、金、銀、銅、鉄、鉛を五金とする中国の呼び名をそのまま取り入れたもので、今でも中国、台湾では五金と言えば、金属はもとより機械工具商の通俗総称になっている。この五金商の中でも優れた才覚の持ち主は文明開化の波にのって競って輸入工具に手を染めていったのである。
 明治後期における立売堀・新町方面の発展は、大正・昭和にかけての繁栄をすでに約束していたと言ってもよい。
COLUMN その2 「負けたらあかん」通天閣

 「ダイヤモンド高い、高いは通天閣、通天閣は怖い、怖いは幽霊」という尻取りのわらべ唄にあるように、当時高い建物の象徴だった通天閣が誕生したのは、明治45年7月だった。現在の天王寺公園の一帯は、明治36年に行われた第5回内国勧業博覧会の会場であった。その跡地8万坪のうち約4万坪が「大阪土地建物株式会社」に貸与され、ニューヨークのコニーアイランド遊園とパリのエッフェル塔を模して建てられたのが、「エジプト館」、「不思議館」、「氷山館」といったパビリオンや活動写真館が立ち並ぶルナパークと通天閣だったのである。
  この初代通天閣は、総工費約9万7千円、高さは東洋一を誇る64メートルで、現在の位置より約30メートルも南寄りに建てられていたという。イルミネーション広告は大正9年に始まるが、広告主は現在の日立ではなく、ライオン歯磨きであった。お祭り騒ぎのうちに大正が終わり、動乱の昭和が始まると、通天閣もまた時代の波に巻き込まれることになる。昭和13年には、吉本興業に買い取られ、また太平洋戦争が始まると、その自慢の長身が空襲の目標になると言われ、塔の全部に迷彩が施されもした。そして昭和18年2月には、とうとう通天閣は300トンの鉄材に姿を変え、大阪府に献上された。
 しかし、昭和29年、新世界町会連合会役員によって、通天閣観光株式会社が設立され、建築を請け負った奥村組にとりあえず集められた2千5百万円を前払いし、再建がスタートした。工事は超特急で進み、当時としては日本一高い103メートル、総工事費3億4千万円の2代目通天閣が開業したのは、昭和31年10月28日であった。「負けたらあかん」という大阪の商売人の心意気を示すシンボルとして、通天閣の灯は大阪を照らし続けている。
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