第一次世界大戦

 新時代への開幕

 大正という時代はいわゆる「大正デモクラシー」の発達が見られた時期であると同時に、第一次大戦による「大戦景気」を契機として、明治維新以降のスローガンであった「商工立国」の悲願が一応達成され、農業国から工業国への転換が実現した時代であった。

 第一次世界大戦

大正3年夏、英独の対立を主因として第一次世界大戦が始まり、日本も日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告した。大戦の勃発は、株式暴落や生糸立会停止、銀行の取り付け騒ぎなど、日本経済にも大衝撃を与えた。
しかし、大正4年後半には、ヨーロッパ各国の輸出力低下と連合国からの軍需品大量受注に加えて、米国経済の活況も手伝い輸出が増大した。株価も同年12月から急上昇し、大正6年9月の米国向け鉄輸出禁止に至るまで株式市場は活況を続けた。また物価も高騰を続け大正3年から大正7年までに2倍となった。
戦争による世界的な船腹不足と極東への配船減少による海上運賃の高騰は、日本の海運界に著しい活況をもたらした。大正4年から7年までの貿易外収支の受取超過額(約13億円)の4分の3を稼ぎ出した海運業は、その事業計画を第一次大戦前比14倍にまで拡大した。

 輸入工具から国産工具へ

 わが国の機械金属業界は、明治から大正にかけて「舶来品万能」という時代が続いた。機械工具をはじめ、伝導装置、バルブ、ポンプなど工場用品はすべて外国からの輸入品が占め、これらを輸入していたのは横浜や神戸などに駐在していた外国商館であった。
 一方では、国産工具の研究開発も進められた。国産化の原動力となったのは、軍需産業の勃興で、日清・日露戦争、第一次世界大戦を経て、特に大正6~7年頃、原敬内閣時代に国産愛用、国産奨励の声はますます高くなり、輸入品を手本にした国産工具工場が続出した。その後、大正末期から昭和初期にかけて国産工具化はいよいよ本格化した。
COLUMN その3 明治、大正時代の立売堀の雰囲気を伝える「どてらい男(やつ)」

 花登筐原作の「どてらい男」は、昭和48年にテレビドラマ化されたこともあり、戦後の高度成長期の話と誤解している読者も多い。しかし、原作は大正末期における国産工具の愛用運動の時代の話である。当時の立売堀の商売の雰囲気を伝えるまたとない資料となっている。
 その一部を紹介すると、「立売堀(いたちぼり)なる語源は元々、木材の立売市があったところから、立売堀と書かれ呼び名だけがいたち堀のまま残ったというのが正説のようである。(中略)
 だが、明治にはいると、木材問屋から金物問屋にとって代わった。日露戦争と共に、鉄鋼の需要が増加し、安治川、川口方面より船で輸送されてきた重量物が、立売堀で陸揚げされてきたからである。機械工具類は、米国ホーン会社から始めて輸入したのが、明治中期、更に第一次世界大戦後にはドイツ品が進出し、米、英、独の輸出の新市場として日本へ、否、立売堀へ向けて殺到したのである。(中略)
 だから商いもハイカラだった。歩いて、東へ15、16分の船場では、前掛姿の丁稚が両手を揉み合わせながら、『毎度おおきに、おいでやす』と客に茶をすすめ、商いなんて4、5年は及びもつかず、せいぜいが大八車で配達だけという時に、『何に致しましょ、へえ、グーデルブレストですか? 5円でキャッシュ・オン・デリバリーです』と、もう商売をやらされていた。」(どてらい男“立志編”、11-12頁)
 この立売堀でわずか18歳の少年が、主人の3倍の売上を上げて、立売堀をアッと言わせた男が山下猛造であった。もちろん、この男が売上を上げることができたのは、たんなるガンバリだけでなく、それまで主人が扱わなかった国産品を扱い始めたからである。小説とは言え、時代考証がきちんと出来ていることが、この小説の価値を高めている。その部分を引用すると、
「満州事変以後、満州への資本投下と軍拡の必要に迫られていた日本は、軍需工業の増産の時代に突入したのである。必然的に輸入は制限され、国産品を求められることになった。一方、金輸出解禁、及び再禁止の為替安から、輸入品との価格競争でも有利となった。それではと、機械工具の国産品の生産が始められたのである。それと併行して、必要になってきたのは問屋である。
 かつて輸入一辺倒の時代には、輸入商社から需要先への、直接取り引きが多かったが、国内生産では工場と需要先を結ぶ中間卸が必要になるのは、当然である。同時に、メーカーへの資金援助の必要性が起こってきた。それを受け持つための問屋制度の誕生が余儀なくされたのである。立売堀に、問屋の数が急激に増加して行ったのも、この必要からである。」(奮闘編、9-10頁)

大阪機械商互親会結成

 日清・日露の戦勝により世界列強の一角を占めるようになったわが国の機械工業、鉄鋼関連業界は、躍進の一途をたどった。朝鮮、満州への渡航が自由になり、業者の販路は広がった。機械工具の需要が増大し、地方で工具店、鉄材店を開くものが多くなり、地方取引が盛んになった。大阪でも機械工具を取扱う商店が続出し、古い店で修行をつんだ人はほとんど大正のはじめから独立開業している。
 大正2年、大阪の機械工具商の親睦と情報交換機関として大阪機械商互親会が結成されたが、この互親会が現在の大阪機械器具卸商協同組合の母体となった。当初会員は25店であったが、同6年には60店に及んでいる。
 大正12年9月1日の関東大震災で東京の大部分が灰に帰したとき、互親会では緊急措置として建設用工具、機械類を大量に東京機械金物商組合を通じて東京の問屋に委託販売し歓迎された。これによって東京の復興を早め、業者がいち早く立ち直ることになり、東西交流の道が開けた。
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