昭和20年代

 戦後の混乱から復興期へ

 昭和20年8月14日、日本政府は連合国のポツダム宣言に基づく無条件降伏を受諾、翌15日には天皇陛下が「終戦の大詔」を全国民に放送した。満州事変の発端となった昭和6年9月18日の柳条湖事件以来、実に満13年11ヶ月にわたった日本軍国主義の侵略戦争は惨たんたる敗北に終わり、ここに「大日本帝国」は崩壊した。
敗戦により日本経済は深刻な危機に陥った。大量の軍事支出、民需生産活動の停止による物不足は激しいインフレーションを引き起こすとともに、政府の民間企業に対する戦時補償の打ち切りは金融機関に預金封鎖を強いることになったのである。そんな中、昭和21年12月には石炭と鉄鋼の傾斜生産方式が採用され、経済復興を牽引してゆくことになる。日本の戦後処理は実質的に米国の単独占領の形で行われ、その占領政策は非軍事化と民主化を柱とし、経済面では財閥解体・労働改革・農地改革など各種の社会経済的改革が断行された。
昭和22年に米国のトルーマン大統領によって宣言された (自由主義諸国に対する共産主義の脅威に対して力で対抗する) トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランへのソ連・東欧諸国の不参加は、「東西冷戦」という戦後の新たな対立図式を浮かび上がらせることになった。このため、日本に対する占領政策も転換され、米国は日本経済を1日も早く自立させ「反共の砦」とすべく、インフレ収束、企業経営の合理化、資本蓄積を促すドッジ・ラインを発表した。このドッジ・ラインは統制経済から自由経済への移行を実現したものの、昭和24年後半から不況が深刻化し、安定恐慌の様相を呈することになった。

 朝鮮動乱(昭和25年6月〜28年7月)の勃発

 昭和25年6月25日突如朝鮮戦争が始まった。当時、ドッジラインの財政金融引き締め政策のもとで日本経済は厳しい不況にあえいでいた。また、企業経営の合理化に伴う中小企業の整理、失業の増大、輸出の不振などにより経済情勢は行き詰まりを見せていた。そうした状況のなかで勃発した朝鮮戦争は、特需景気を日本中に巻き起こした。朝鮮戦争は米ソの激しい対立のなかで国際情勢を「一触即発」の危機に陥らせ、各国はいっせいに再軍備に乗り出すことになった。不況によって発生していた大量の滞貨が一掃されただけでなく、日本製品に対する海外諸国の需要が急速に増大した。機械金属、繊維を中心として海外の需要が増加し、日本の輸出が急伸した。このような繊維・機械金属工業の活況は「糸ヘン景気・金ヘン景気」と呼ばれ、輸出額は、昭和24年の5億1千万ドルから25年に8億2千万ドル、26年には13億5千5百万ドルへと急増した。
機械工具業界も、日本への特需が増えたことにより滞貨を一掃し、品不足から工具類は相次いで値上げされる程、好景気に湧いた。もっとも、昭和28年7月の朝鮮戦争休戦会談によりブームは終わったものの、国内の設備投資は盛んとなり好況が続いた。27年4月28日には、サンフランシスコ平和条約が発効し、連合軍による日本の占領も終了し、日本も独立国として国際社会に復帰することになった。しかし、その後昭和28年には輸出が頭打ちとなり凶作も手伝って外貨危機が発生した。日銀は金融、財政面から緊急引き締めを行い景気後退が始まった昭和29年の米国景気の好転により国際収支は改善、同年11月に不況は底を打つことになったのである。
COLUMN その4 「糸へん景気・金へん景気」

 戦後、大阪の景気はどん底であった。そうした状況で、いわば「恵みの慈雨」となったのが、朝鮮戦争の勃発であった。当時、大阪の糸へん産業の好景気は、「ガチャ万、コリャ千」景気とも呼ばれていた。というのは、織機をガチャと動かしただけで軽くお金が入り、すでに政府から助成金を受けて廃棄した封印のついている老朽機械を動かし、それを役人に見つけられてコリャと罰金を徴収されても、なお差し引き儲けがあるほど景気が良かったからであった。
 機械工具の業界でも「金へん景気」に乗ったものの、その実情は必ずしも問題がなかったわけではなかった。当時の日本商工新聞社の記事から引用すれば、「朝鮮動乱の長期化と国際情勢の逼迫による物資の変動が著しく、繊維製品に対しては暴利の取締りが云々されている。機械工具の値上りは思惑的買占めではなく、鉄鋼資材の値上りによる必然的なものであるから暴利取締りの適用からは除外されるであろうが、銅、真鍮製品、鋲、螺、バルブコック、作業工具、切削工具の順に漸次値上がりの一途を辿っていることは事実である。殊に釘、針金、真鍮製品等は毎日相場が変動し注文が殺到して整理に待ちあぐねているようであるが、売値の値上りよりも今度仕入れる時の値はさらに上廻りして結局は、在庫が捌けたのみで大きな利益は期待されない。
 価格の変動がそのまま工場や問屋の利益であるから利潤追求よりも、今回の値上りを機として業者としては売掛代金の整理と優良取引先との結合に意を用いた方が賢明ではあるまいか。
 現在大阪業者の有志によって不良取引先の内報とその店への販売拒絶を計画しているようであるが、この方面が是正されたなら今後の取引を改革する意味で大きな収穫となるであろう。機械工具商の需要が増大することは需要工場の殷盛であり、業者は多少とも手持品の値上りで儲けがあり、工場も一個に対する原価の値上りはある程度利潤となるので、三者協同してこれを機会に現金払又は月末払へ是正されるべきであろう。すなわち今回商品の値上りによって金儲けができるとの観念は一瞥して正しい取引への還元に努力したならば、将来は正確な商取引が、三者を等しく潤して現在のような金融的神経戦を超脱した明朗な境地に到達し得るであろう。」(『機械工具商金属製品 1950年の記録』日本商工新聞社、7頁)

 大阪機械工具商業協同組合の創立

この間、昭和21年8月に、経営の合理化に必要な共同施設を作るとともに、組合員相互の福利増進を図ることを目的とした新しい商工協同組合法が議会を通過した。従来の日本機械工具配給統制組合は21年春に任意団体の日本工具商工会となったものの、積極的な活動はしていなかった。そこで、今後の業界発展に対処して業界の利益を守り親睦を図るため、東京や大阪など全国各地区で機械工具商業協同組合設立の動きが目立ち始めていた。大阪の業界でも協同組合設立の気運が強まり、22年3月15日全国に先駆けて大阪機械工具商業協同組合の設立総会が開催された。

 大阪機械工具商業会の発足

 昭和23年6月には、前年3月に設立された同協同組合が早くも解散することなり、直ちに任意団体の大阪機械工具商業会が発足した。同組合解散の理由は、定款の主要目的が法案改正のため削除され、また法人の加入禁止等の問題、機械工具商業者の状態が組合の目的に合致しなくなったためであった。形式的組合をやめて自主的な会を結成した方が良いとの結論に達し、満場一致で解散が決議された。
 
 立売堀新町商店街復興会の結成

 第二次世界大戦中の苛烈を極めた空襲により、日本一の問屋街として栄えた立売堀の町並みも全くの焼け野原と化していた。また、終戦直後はインフレの急激な進行、深刻な食料不足、横行する凶悪犯罪、巷に溢れる復員軍人や浮浪者や戦災孤児など、解決の糸口すら見つからないような多様な難題に直面していた。長年営々と商売に励んだ土地であるだけに立売堀への未練を捨てきれない商売人も、その復興への手立てを未だ見つけられない状態だった。そんな中、立売堀への愛着を捨てきれない小野逞三が住友銀行に交渉して、会員組織として30の業者をまとめ、連帯で保証することを条件に共同店舗の建築資金の融資を獲得した。こうして立売堀の復興の狼煙が上がった。そして、昭和21年2月13日にはこの30の業者を中心として立売堀新町商店街復興会が創立され、代表には小野逞三と堀潔が選ばれた。同年10月23日、ついに彼らの努力が実り、合計30軒ある共同店舗の最後の1軒が完成した。この30軒の共同店舗は、西立売堀バス停を中心に立売堀北通4、5丁目から薩摩堀東之町へかけて広がっていた。

 立売堀新町振興会の創立

こうして店舗を確保でき、ようやく営業を再開できたものの、店頭に並べた商品は、焼け残ったものから、まだ十分使用に耐えるような製品を修理、加工したものであった。しかし、極度の品不足の時代にあり、また復興に欠かせないものばかりだったので、商品は全て飛ぶように売れた。やがて立売堀・新町の復興が全国に知れ渡り、遠い地方からもはるばる汽車に乗って買いに来る人は後を絶たなかった。その結果、この地で再起したり、新たに進出して営業を開始する業者が次第に増え始めた。そこで立売堀新町商店街復興会を発展的に解消し、この地区ですでに復興した業者を含めて地区全体の商業振興を図るために新たに任意団体を作ることになった。昭和21年12月15日、約40名が集まって立売堀新町振興会の創立総会が開催されたのである。会長には堀潔が、副会長には小野逞三が選任された。その目的には「会員の親和と友好互助の精神により共存共栄を基盤に協力一致、営業の向上発展とその福利を増進し、民主主義に立脚して世論を反映、関係官公署との連絡協調を密にし、明るく住み良い近代的な地区として振興を図る」ことが謳われた。

 復興店舗100を越える

立売堀新町商店街の商店数は急激に増え、昭和22年12月末には140〜50店に達した。商売が繁盛し始めると、電話の架設が急務となってくる。振興会はその架設資金の確保に奔走し、銀行からの融資を取り付けることに成功し、結果的には合計109本も架設されることになった。
時代の変化は交通手段も変化させていた。立売堀地区では昔から舟便が利用されていたが、大阪全体の発展に大きく寄与した西区内の多数の運河も、河川運送から陸上運送へ時代が変化したため、長い間ほとんど利用されないままになっていた。昭和22年には、焼け跡整理の際に瓦礫の投棄場所と化していた堀江川、薩摩堀川、海部堀川の埋め立て工事が着工された。立売堀川も多くの人々に惜しまれながらも、昭和30年に埋め立て工事が始まった。

 多難な時期を乗り切る

 立売堀・新町・薩摩堀を中心に鉄鋼や機械工具、その他の工場用品を取扱う業者は、昭和23年の春になると、昔日の面影を少しずつ取り戻すようになっていた。
 立売堀新町振興会は、昭和24年の役員会で「納税協力会」を結成することを決議した。その目的は、納税は国民の義務であるのできちんと果たすことは当然としても、当時はじめて制定された取引高税などについて適正な課税を要望しようということであった。この組織は、26年から「納税貯蓄組合」に名称が変更された。

 戦前の最盛期まで復興する

機械工具業界では、26年暮れから27年にかけて資金難が切実な悩みの種となっていた。立売堀新町振興会ではこの問題を解決するため会員の希望者だけで恒友会を設立し、年末には大阪市信用金庫と折衝し、融資を取り付けることに成功した。これは振興会恒例となる年末融資の始まりであった。
昭和20年代の後半を迎えると、立売堀・新町の問屋街はバラック建ての店舗が太い柱の問屋風の建物や鉄筋コンクリートに次々と外観を整え、ようやく戦前の最盛期の姿まで復興するようになっていた。

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