第一次世界大戦後

 関東大震災

大正7年に大戦が終わった後、休戦による一時的な反動不況がおとずれた。だが、翌8年には復興景気により輸出の増勢が続き、物価・株価の高騰やそれに伴う企業熱も再燃していく。だが、それもつかの間、大戦中に途絶していた原材料や機械類に輸入が復活すると入超額はたちまち急増する。そして大正9年3月15日には、東京株式市場大暴落を契機として激しい戦後恐慌がはじまった。恐慌を切り抜けるため、政府と日銀は積極的に特別融資などの救済政策に打って出た。これを受け、恐慌は同年秋にはほぼ治まったものの、銀行の取り付け騒ぎなど経済の動揺は続いてゆく。加えて関東大震災は、日本経済の中枢部に大打撃を与えることになったのである。
関東大震災後の日本経済は救済融資によって下支えされたものの、景気は低迷、さらに震災手形の焦げ付き処理は昭和2年に「昭和金融恐慌」として爆発した。在京中小銀行の経営悪化状態の暴露に端を発した金融不信は、台湾銀行、五大銀行の取り付け騒ぎを誘発し、預金が大銀行に集中したため、既成財閥は系列銀行を通して産業界への発言力を強化することになった。

 満州事変と軍需工業の殷盛(インセイ)

 金融恐慌が一段落した後も景気の不振は続いた。放漫政策により弱体化した日本経済を一変させるべく、政府は緊縮政策の効果を期待して金解禁を実施する。この金解禁と徹底的なデフレ政策によって国内景気は強度の不況に見舞われることとなった。しかも昭和4年10月24日、暗黒の木曜日と呼ばれるウォール街の株価大暴落に始まった「世界恐慌」と金輸出解禁の影響が重なり合い最悪の状況となってしまう。このような世相を背景に軍部は独走して満州事変を引き起こす。その後、金輸出の再禁止(昭和6年)、政党内閣の終焉、軍拡財政のインフレ政策などにより日本経済は世界恐慌を尻目に軍需景気に湧いた。
機械金属工業も素早く息を吹き返し、とくに工作機械に対する需要が急増するにつれて、機械金属工業界もやっと活気を取り戻してきた。
 満州事変を契機に日本の産業構造は大きく変革され、軍需工業を媒介として準戦時体制への再編が進められた。

 日華事変と統制経済

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件を契機に全面的な日中戦争が始まった。近衛首相の不拡大方針の声明にもかかわらず、華北・華中へと戦局は拡大し、長期戦の色を濃くしていった。しかし、日中戦争勃発前のわが国の経済は、困難の度を深めつつあった。昭和11年の2・26事件以降の軍部の政治的影響力の増大を背景に、軍事経済化のための政策を採用せざるを得なかった。
こうして、自由主義的な経済運営にいよいよ制約が加えられることになり、わが国は、戦時統制経済の局面に入ることになった。カネとモノの両面から物資の生産・配給・消費に対する統制は、やがて国民の生活必需物資の不足を引き起こし、さらに統制を有効とするために、物価統制や物品配給制を必要とした。こうして「統制が統制を呼ぶ」全面的統制経済に移行することになったのである。

 大阪機械商組合発足

 機械工具類の需要拡大は、必然的に機械工具販売業者数の急増をもたらした。大阪では大正末期に300店と推定された同業者数は、600店に倍増、とくに立売堀・新町地区の発展は目覚ましかった。このような業界の動きにつれて、昭和9年頃に単一組合の結成準備が進められた。大正2年に設立された大阪機械商互親会、同8年に発足した大阪機械商親交会、そして昭和のはじめにできた上町機械商組合が中心となって大阪機械商組合創立委員会が結成され、組合結成運動を続けた結果、昭和10年10月重要物資同業組合法による準則組合として大阪府安井知事から認可がおりることになった
 同年11月22日、西長堀の大阪実業会館で組合創立総会を開催され、大阪機械商組合が発足した。


大阪機械商互親会結成

 日清・日露の戦勝により世界列強の一角を占めるようになったわが国の機械工業、鉄鋼関連業界は、躍進の一途をたどった。朝鮮、満州への渡航が自由になり、業者の販路は広がった。機械工具の需要が増大し、地方で工具店、鉄材店を開くものが多くなり、地方取引が盛んになった。大阪でも機械工具を取扱う商店が続出し、古い店で修行をつんだ人はほとんど大正のはじめから独立開業している。
 大正2年、大阪の機械工具商の親睦と情報交換機関として大阪機械商互親会が結成されたが、この互親会が現在の大阪機械器具卸商協同組合の母体となった。当初会員は25店であったが、同6年には60店に及んでいる。
 大正12年9月1日の関東大震災で東京の大部分が灰に帰したとき、互親会では緊急措置として建設用工具、機械類を大量に東京機械金物商組合を通じて東京の問屋に委託販売し歓迎された。これによって東京の復興を早め、業者がいち早く立ち直ることになり、東西交流の道が開けた。
前ページ 次ページ