昭和40年代

 戦後安定期

戦後最大の不況と騒がれた「40年不況」も国債発行声明を契機に回復に向かい、戦後最長(57ヶ月)の好況となる「いざなぎ景気」をむかえることになった。昭和41〜45年度の年平均の経済成長率は11.8%であり、それも5ヵ年間連続して各年度の成長率が10%以上という未曾有の高度経済成長時代を実現することになった。米国における106ヶ月もの長期好況やベトナム戦争による東南アジアへのドル散布も間接的に日本の景気を支えた。昭和43年には、日本のGNPは1,428億ドルと、西独を抜き資本主義国のなかで世界第2位となった。
好況の持続と国際収支黒字の同時達成により国際収支の天井は消滅し、日本は輸出増大によって国際的批判を浴びるほどであった。米国は日本に対して輸出制限といっそうの市場開放を求めるようになり、日本も徐々に輸出規制を開始する一方、昭和46年8月の第4次自由化で資本自由化を基本的に完了した。
昭和44年9月には物価抑制のため貿易黒字で初の金融引締めが行われ、翌45年の秋頃まで続くことになった。しかし、結果的には昭和45年3月14日から半年間、開催された万国博覧会の終了と同時に景気が後退し始めることになった。また昭和46年8月には、ニクソン米大統領が金とドル交換の停止、10%の輸入課徴金などのドル防衛策を発表した。このいわゆるニクソン・ショックによって、金とドルの交換を基軸とする固定相場制のもとで、為替取引を自由化したIMF体制は事実上崩壊し、変動相場制へ移行することになった。また12月にはスミソニアン協定により円が切り上げられ(1ドル=308円)、この影響で深刻な不況が引き起こされることを心配した日本政府は、減税・国債発行・公定歩合引き下げという緩和策をとった。折しも、昭和47年7月上旬に発足した第一次田中角栄内閣の「日本列島改造論」は、土地の買い占めなど投機熱を煽り、激しいインフレーションを引き起こした。株価、地価は空前と言われる程の高騰を続けた。

 石油危機の勃発

昭和48年(1973年)10月に発生した第四次中東戦争に際して、OPEC(石油輸出国機構)は石油価格の引上げと、非友好国への輸出削減という石油戦略を発動した。安価な石油や原材料を良質な低賃金労働力と結びつけ、高い貯蓄率に支えられた低利資金を設備投資に投下することで急成長してきた日本経済は、多大の影響をこうむることになった。すでに列島改造論や積極的財政政策で進行していた物価上昇が、石油危機による便乗値上げで一段と加速され、狂乱物価といわれた。

狂乱物価の写真
景気は11月を頂点に下降し、昭和49年には戦後初めてのマイナス成長を記録した。企業は人員整理とともに原材料費の節約でコストダウンを図り「減量経営」に努めた。全社的な品質管理TQC、品質管理小集団活動QCサークル、従業員提案制度など日本的経営といわれる各種手法が採用されたのもこの頃であった。
昭和54年(1979年)2月に発生したイラン革命に関連してOPECの石油価格の段階的引上げが再び石油危機として世界を襲った。前回の苦い経験から財政金融を引き締めることで物価上昇の回避に努めたため、昭和55年3月には過去最大の公定歩合水準となった。昭和55年2月から昭和58年2月までは調整期に入り、その後昭和60年6月に景気の山を迎えることになる。
石油危機の影響は、行き詰まっていた素材型重厚長大産業から省資源・省エネルギー型高加工度産業への産業構造の転換を促し、少品種大量生産方式から多品種少量生産方式への転換を進めた。また半導体・集積回路・電子計算機の発展を基礎に産業技術は急速に変貌し始め、マイクロ・エレクトロニクス(ME)革命が始まる。工作機械、通信技術のMEとの結びつきは、日本産業の競争力を向上させ、通商摩擦を激化させることになった。
 全日本機械金属展に参加

 昭和41年10月15日から12日間、日本工業新聞社主催の全日本機械金属展が大阪国際見本市港会場第1号館で開催された。日本国際工作機械見本市、ソ連商工見本市と同時に開かれたが、立売堀新町振興会は創立20周年記念事業として会員31社が参加、会場内に振興会の事務所を設け、出品を1ヶ所にまとめるなど、商品の展示方法に工夫を凝らして、振興会の存在を関連業界に強くアピールすることに成功した。同じく記念事業の一環として毎月18日を献血の日とし、会員従業員の献血、預血運動などの献血事業に積極的に取り組んだ。
昭和42年2月1日、布施、河内、枚岡の3市が合併して東大阪市が誕生した。交通渋滞が慢性化しつつある大阪市内から旧布施市友井地区へ、建築金物関係を中心に88の商社が進出して大阪金物団地を作り、同年11月1日に落成式を挙げた(我が国初の総合卸商業団地)。立売堀地区からも藤岡鋲螺、前田機工などが参加し、営業所を開設した。また一方で、昭和43年2月には東大阪市本庄に大阪府のトラックターミナルが完成、同地区に機械団地を作ろうと大阪市内の機械業者83社が大阪機械卸業団地協同組合の創立総会を開催した。これにも立売堀・新町地区から当時、五味屋、梅田機工、西野産業、オノマシン、喜一工具、山勝商会、片山チエン、池田金属、シミヅ産業、菊鈴工業(現キクスズ)、土佐機工、田倉工具製作所、森一産業、中野、多田ポンプ、巴バルブの計16社が参加した。この大阪機械卸業団地(計102社参加)の共同施設は昭和46年3月12日に落成式を迎えることになった。

 共同配送センターを建設

大阪西機械金属商協同組合は、交通難緩和のため共同荷さばき場を新設し、運送を共同委託して積載率の向上、単位ロットの大型化などにより運賃の低減を図ろうとした。夜間の荷受け、一時保管業務なども行い、組合員各社の残業宿直制の合理化により労力の節約にも役立てるというのも、設立の目的であった。この大阪西機械金属商協同組合が西大阪運送事業協同組合と提携して、元百間堀川埋立地である西区立売堀上通3丁目に建設したのが、大阪西共同配送センターであった。昭和44年8月23日に完工披露を行い、9月1日から営業を開始した。立売堀・新町地区問屋街の交通麻痺の解消、労働力の節減、さらに輸送の迅速化による即納体制の確立など大きな効果が期待され、また全国でも初めての試みとして関係業界から注目されての門出であった。当初は運営の不手際や集荷成績の不振などのため赤字経営だったが、人事刷新による業務の円滑化や出荷の合理化に努めた結果、経営は軌道に乗るようになった。

 国際化時代の進展

 昭和40年代前半には開放経済時代を迎えての立売堀・新町地区商社の海外市場への進出はいよいよ本格化し、例えば、児玉商事がロサンゼルスに現地法人「Y・K・インダストリー」を設立し、五味屋がシカゴに、片山鉄建がロサンゼルスにそれぞれ現地法人を設立し、そしてオノマシンも台北に支店、連絡所を設立するなどの動向が見られた。また、昭和45年の11月にオランダのロッテルダムに大阪府の「大阪商品海外ストックセンター(OMC)」がオープンしたことにより、喜一工具などが駐在事務所を同時開設することになった。
 このOMCは、日本を取り巻く厳しい貿易、経済情勢を受けて、一層の輸出拡大を図るために、大阪府が中心となり、市場の開拓が望まれていたヨーロッパにおける中堅企業の商業活動をサポートすることを目的として生まれた施設であった。本格的な輸出に取り組もうとしていた工具・機械関係企業にとっては、それが在庫をストックする倉庫としての役割も担うため、小ロットでの発注や配送時間の短縮化を可能にし、ヨーロッパへの輸出の拡大に大きく貢献した。
COLUMN その5 〜K社の海外進出〜

大阪で万博博覧会が開催された昭和45年(1970年)には、オランダのロッテルダムにオープンした「大阪商品海外ストックセンター(OMC)」に同時に開設された駐在員事務所がきっかけとなり、K社はヨーロッパ全土から中近東に至るまで販売網を広げることになる。
1975年(昭和50年)に旧西ドイツで開催されたケルン見本市で、K社が取り扱っていたパイプマシン(ガスや水道に使うパイプのネジ切り機)が脚光を浴びることになった。ケルン見本市(正式名称は、「ケルン・ハードウェア・ショウ」)とは、1971年(昭和46年)よりドイツのケルン市において毎年3月に開催される、工具関係の2大専門見本市の1つとしても名高い国際イベントである。また、この見本市では世界の工具市場の流れを肌で感じられるだけではなく、商品の展示方法やデモンストレーションの効率的な方法、つまりヨーロッパの店舗作りを会得することになる。そして、ここで培ったノウハウは国内の展示販売方式店のチェーンストア化に生かされることになる。ひとつの道具について数種類のメーカーの商品を用意し、それぞれを実際に手にとれるという販売店のスタイルが確立されるようになったのである。工具店では店内にアングルを設けて商品を箱詰めしたまま置くのが一般的だったことを考えれば、画期的なアイデアだったと言えるだろう。

 大阪万博の開催

大阪では昭和45年に千里丘陵で開かれる日本万国博覧会の準備が本格的にはじまり、業界の協調ムードも高まっていったが、その一方でメーカーは製品値上げの方向をたどった。そして、工作機械、機械工具などの各種製品の値上げも相次いで行われ、生産額はいずれも史上最高記録を更新するなど、年初の予想に反して繁忙な年となった。機械工具商も大型景気とともに歩んだ年であった。
しかし、昭和46年には機械工具業界における数年にわたる好況も一気に不況に転じ、また同年8月には、金とドル交換停止、10%の輸入課徴金を発表したニクソン・ショックによりメーカーは減産、販売業者は在庫調整に努めたが乱売による値崩れを起こすことになった。
昭和48年には日本列島改造ブームを反映し、景気は回復から上昇ムードへ向かった。立売堀・新町地区の機械工具問屋街も、昭和47年下期から昭和48年へかけて、かつてない好景気に沸き立った。各業種とも飛躍的に発展し、企業体質が著しく改善されることになる。しかし、10月には石油危機が勃発し、石油価格の高騰、関連企業の便乗値上げ、先取り値上げなどから異常なインフレが進んだために、日本経済は大きなダメージを受けることになった。

 大阪機械工具商連協同組合設立

 大阪機械工具商連合会は業界の地位向上と共存共栄への道を歩むため、大機連を事業協同組合へ改組することを決めた。昭和48年4月1日大阪府知事の認可を得て大阪機械工具商連協同組合に移行することになった。
なお、オイルショックの影響を受けて、改築計画を進めていた立売堀南通3丁目の鉄鋼会館の着工は一時延期されることになった。
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