昭和60年代以降

 バブル期

 円安による日本の貿易黒字は対米貿易摩擦を深刻化させ、昭和60年9月プラザホテルの5カ国蔵相会議(G5)でドル高修正のために為替市場への協調介入が合意された(プラザ合意)。この「プラザ合意」の結果、円高が急激に進み、合意直前の1ドル=242円から85年末には1ドル=200円にまで上昇した。同年3月にはソ連共産党書記長にゴルバチョフが就任、10月にペレストロイカ推進の方針が打ち出された。
 昭和61年は円高で輸出が伸び悩み、成長率は前年度の4.5%から2.7%に低下、円高不況といわれた。4月経済構造調整研究会は、内需拡大により産業貿易構造を国際協調型への構造転換することを唱えた、いわゆる前川レポートを提出した。企業の方も販売先の国内への転換、海外での現地生産や新規分野への進出といった対応策を進めた。さらに政府は当時としては過去最大となる公共投資(9月:3兆6360億円、年末:3兆円規模の補正予算)を行い、日銀は連続的な公定歩合の引き下げを断行した。
 それでも一時は1ドル=120円台の円高になったものの、昭和61年以降の緩和政策で日本国内は好況となった。先進国中最低の金利水準が生産財・資本財産業の設備投資や住宅投資を刺激し、株価・地価などの資産価格を上昇させ、上昇した賃金水準が消費支出を拡大させたのであった。昭和62年4月上旬の東証株価時価総額は350兆円で昭和61年度の名目国民総生産335兆円を上回る程であった。また景気の急拡大にもかかわらず円高と輸出増加で供給力のボトルネックはなく、物価は安定して国際収支の天井がない景気拡大となった。このような状況を受け昭和62年7月に経済企画庁と日銀は景気回復を宣言した。こうして実態から離れた資産価格の投機的上昇というバブルが発生した。リゾート法成立で全国各地に大規模リゾート開発ブームが起こり、東京では国際金融都市化で都心のオフィスビル需要は急増、節税のためのビル建設ラッシュとなった。また郊外での住宅取得で地価高騰は都心から郊外に波及し、地上げの横行と投機的土地転がしで狂乱地価はピークとなった。
 しかし、昭和62年10月にニューヨーク株式市場で22.6%の株価暴落が起こった。「ブラック・マンデー」と呼ばれた日の翌日、その影響は東京市場にも及んだ。東証株価は14.9%、9836円安の大暴落となり、株式損害額は69兆1200億円にのぼった。しかし翌年1月に株価は反転上昇することとなる。株価急上昇の間、大企業はエクイティ・ファイナンスにより低コストで調達した資金をさらに証券投資してキャピタルゲインを獲得しようとして株価を吊り上げた。そうでない中小企業は低金利を利用して借入金依存度を上昇させていった。日本経済は外貨準備高〔昭和62年〕、対外純資産〔昭和60年〕、対外資産残高〔昭和63年〕、国民資産所得〔昭和62年〕などあらゆる指標で世界第一位となった(〔〕内は世界第一位となった年)。
こうして第2次石油危機とプラザ合意後の円高不況を乗り越えた日本経済の強さは国際的な注目を集めた。日本企業が欧米に比べ経営者支配が強く、短期的な利潤追求より長期的な企業の成長を重視する点、労使関係が企業別労働組合や長期勤続の年功序列賃金などにより安定的である点、企業間の取引も長期的・安定的取引を重視しているなど、「日本的経営」の特質があらためて関心を引くことになった。

 バブルの歪み

 しかし、為替安定の協調介入体制下での景気刺激策の影響は、昭和62年に国債発行残高150兆円突破という形で現れ、政府の財源確保問題は消費税導入を柱とする税制改革関連6法案の可決を必要とした(平成元年4月消費税3%導入)。また昭和63年6月に発覚したリクルートコスモス社の未公開株式譲渡事件は、バブル景気の歪みを象徴する事件となり、これを受けて平成元年6月に竹下内閣は総辞職、同年7月の参院選挙では与野党逆転となった。そのほか日米経済摩擦はますます深刻化し、米国への半導体関連商品輸入規制の強化、日本への牛肉・オレンジなどの農作物輸入自由化がはかられた。
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